《行事》



⊂ 例大祭 ⊃
 大宝元年、綣を中心とした広い地域に疫病が流行した。人々はなんとか神様に疫病を
鎮めて頂けるように願ったところ、この願いが通じて人々は健康をとり戻した。
 翌、大宝2年から毎年疫病が流行する初夏に祭礼日を決め、その日は神様を社から出
てもらい疫病が広がっていかないようにみんなが健康で夏を乗り切れるように力を授けて
もらおうとした。そのことが当神社の祭礼の由来です。
 神輿ができるまでの時代の渡御の形態は不明ですが、神籬<ひもろぎ>(=神様が乗られ
る榊に神垂を取り付けたもの)を持って渡御をしていたと思われます。当神社の神輿は、
前面に神籬を取り付けて渡御します。
 5月3日夜、神様の分御霊を神籬に移します。どのようにして神籬に移っていただくか、
当神社の場合は神籬を振って神様の御霊に活気づいてもらい、神様に願いごとを聞いて
もらい乗り移ってもらうことです。
 5月4日は、神籬を取り付けた神輿を威勢よく宙に放り上げたりしますが、神様の力を強
めるという意味と神様に対する最高のおもてなしをするという意味もあります。






⊂ 相撲祭(ソウモクサイ) ⊃
 相撲祭は、栗東北中小路と守山二町の水利権争いに端を発し、その当時の神主が仲
裁をして両村の子どもたちにすもうを取らせ円満に解決した故事に由来している。このこと
は、北中小路のおとなに「三枝草井(さえぐさい)」という由緒書が伝えられている。
 三枝草井は、栗東の野尻の池から二町を経て北中小路に引く用水のことである。三枝
草井とのかかわりを伝承する神事が「相撲祭の神事すもう」と称するものである。
 すもうの子どもは、北中小路、二町とも「おとな」と呼ばれる六人衆から選出され、行司は
北中小路の長老が務め、二町は東で赤、北中小路は西で白の褌と決まっている。
 双方の子どもは三番勝負をする。それぞれが一勝して三番に入ると、途中で行司が「ま
った」と勝負をとめ「この勝負は、来年に預け置く」と声をかける。神事すもうは、現在も同じ
形で継承されているが互いを勝たせ最後に勝負を持ち越す方法は、決着をつけずに遺恨
を後に残さない先人の知恵の表れといえるのではないかと思われる。
 相撲祭の現存で最も古い文書は嘉吉元年(1441年)「綣村天王社古帳」がある。






⊂ 献茶祭 ⊃

京煎茶・梅月流、茶道・花道
家元 三宅 梅宗
家元本部教場 滋賀県栗東市綣4丁目7番10号  電話 077(553)2594
 京煎茶梅月流は、京都で最も格式高い寺院と関係深い、先代山根千宗宗匠の流れを汲
む流派であります。
 当流の特徴は礼儀作法、立ち居振舞いを主眼とし、特に優雅に品の良いお能の所作を
加味された堂上風の作法を身上としている。厳格清冽な伝承の「献茶帛沙捌き」による十
六菊の花びら扱いが特徴である。主催する茶席は四季折々のテーマを自由に取り入れた
親近感溢れる結界飾りや、お点前を通して清雅な境地に浸り、自然闊達な作法に徹するこ
とも又主眼としている。
 初代三宅梅宗は、古くから松藾の絶えない西の小京都と云われる広島県竹原市に生を
受け、昭和15年3月県立竹原高等女学校卒業後は生涯一筋に煎茶道、茶道を研究し精
進を重ねてきた。梅宗家元は、長年に至り先代の従者、随行修行などの任に当たり厳格な
る薫陶と秘口伝を授かり、又その深奥に触れ、後年先代宗匠の命により梅月流を創流する
に至った。
 平成3年2月11日(辛未)京煎茶梅月流を創始の後、同年11月28日には、格式ある大
寶神社に於いて第1回献茶式之儀を挙行、爾来毎年献茶祭に於いて今日まで名誉ある御
献茶の儀にあたってきた。2001年(平成13年)4月8日大寶神社ご鎮座1300年奉祝記
念祭では拝殿に於いて献茶之儀、煎茶奉修をとり行った。初煎茶会、月見茶会、地域の
文化祭、大宝公民館及び大宝西公民館で開催される茶道教室、児童のお茶と作法教室
等々地元に密着した文化活動を精力的に行い、煎茶道普及に大きく貢献してきた。また、
米国交換留学生(栗東市姉妹都市ミシガン州バーミングハム市)に、日本の伝統文化を体
験する茶道教室を開催し、茶道指導を通じて国際交流を行った。
 梅宗家元は発展していくこれからの煎茶道界に於いて、その品位ある流派の維持向上
発展に心を尽くし門下の資質と能力の一層の充実、創意と工夫を加え自然の理法に適っ
た繁栄を築く事を目指している。